2013年08月09日

東大二宮果樹園の概要

東京大学大学院農学生命科学研究科附属農場二宮果樹園は1926(大正15)年に開園し、2008 (平成20)年閉園までの82年間、果樹は主としてカキ、ブドウ、ナシ、モモ、スモモ、アンズ、ウメ、イチジク、ミカン類、ビワなど。そのほか和洋各種の野菜類、庭園花卉等の栽培試験、品種改良、採種などを行っていました。
東大二宮果樹園の概要

昭和10年に吾妻村から二宮町になりましたが、それ以前は吾妻果樹園と呼ばれていました。
東京帝国大学ではこれまで土質が栽植に適さなかったり、果樹園が水害にあったりして適当な土地を探していたもので、東京の羽田空港に近い大田区六郷果樹園と入れ替わる形で設置されました。

早速、1925 (大正14)年、1926 (大正15)年、1930 (昭和5)年の3回にわたり、合計4.6ヘクタールの用地を購入、園田男爵別荘宅地跡(諏訪脇)、隣地の水田(栗谷前)を転換して果樹園を造成しました。

用地の購入にあたっては、当時東京に近く、しかもミカンの経済的栽培が可能であるという点が考慮されたとのことです。

沿革
1915(大正4)年~1923(大正12)年 園田幸吉男爵別荘と果樹園
園田幸吉男爵(横浜正金銀行頭取等を歴任)が持病悪化のため吾妻村(今の二
宮町)の中里諏訪脇に別荘と果樹園(梨)を造り、療養生活。関東大震災で建
物崩壊、逝去。

1926(大正15)年 東京帝国大学が取得、農学部附属農場果樹園を移転、
吾妻果樹園開設(みかんの経済的栽培が可能という理由)

2008(平成15) 年閉園

「しお風」神保智子
※園田孝吉
鹿児島藩士の生まれ。上京し、後に東京大学になる大学南校を卒業した。外務省に入り、外交官としてイギリスをはじめとして19年間勤務した後、郷土の先輩 松方正義(蔵相。後に首相)に押されて国策・特殊銀行である横浜正金銀行(後の東京銀行。現在の三菱東京UFJ銀行)の頭取に就き、続いて十五銀行(皇族、華族出資により設立。鉄道事業への投資が顕著であった。後に帝国銀行と合併。現在の三井住友銀行)頭取も勤務。

大正4年67歳の時に持病が悪化し、数行の非常勤取締役に退き、吾妻村(今の二宮町)の中里諏訪脇に別荘と果樹園を造り、療養生活。

大正6(1917)年69歳の時に、国内外の金融・実業界の発展に貢献したことにより、爵位を授与。

大正12(1923)年9月1日、75歳の時、関東大震災で別荘が倒壊し、当地で他界。

園田氏が別荘を当地に選んだ理由の一つに、十五銀行時代に取り組んだ鉄道事業への知識と関心、自らの取締役会への上京や知友人の来訪を配慮した交通の利便性、即ち東海道線二宮停車場と軽便鉄道中里停車場の存在があったことは想像に難くありません。

また氏は、果樹園に「梨」を植え、県の農産技師を顧問に迎えて、自らも鋤鍬を取り、除草・施肥・梨の実への袋かぶせが、出来るようになるなど健康も快復されました。

温厚な人柄で人に好かれ、別荘も多くの来客で賑わい、特に「梨」の季節には知友人を招待し、「梨の会」を催すことを楽しみにしていられたようです。

彫刻家の高村光太郎は、フランス留学から帰ってまだ無名だった頃に、園田氏の胸像づくりのために二宮に通い、特に印象深かった仕事であったと回顧録に記しています。

1923 (大正12)年9月1日関東大震災が起こったときは、その前日から「梨の会」を催しており、来客4名とともに地震に遭遇。うち来客2名も崩れた建物の下敷きになり亡くなりました。

氏が亡くなって3年後、土地は東京大学に売却されましたが、氏が愛した「梨」の栽培は東大も継続し、再び主人を失った今でも、子孫の「梨の木」が、白い美しい花を咲かせ、実もたわわになってています。 
東大二宮果樹園の概要東大二宮果樹園の概要

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